日本の近代化を影で支えた
統計の偉人たち

日本の統計学発展に寄与し、大きな功績を残した偉人たちを紹介します。

〉統計の偉人たちリスト

日本近代統計の祖

杉 享二 1828~1917 Koji Sugi 西洋の学問には、スタチスチックが重要な役割を担っている。これからの日本には、スタチスチックや国勢調査が必要だ。

西洋の学問や多くの識者との出会いを通して、社会における統計の重要性に目覚め、日本に統計を広めたパイオニア

1 杉亨二の人生を変えた学問との出会い

杉亨二は長崎の酒屋の長男として生まれましたが、幼くして両親と死別し、祖父母に養われました。そして祖父の友人が経営する舶来店に奉公することとなり、外国に関心を持つようになりました。その舶来店の店主である上野俊之丞が、蘭学書を多数所蔵していたため、上野邸には緒方洪庵をはじめ多くの蘭学者や医師たちが出入りしていました。杉亨二はそうした来客の世話を手伝ううちに、彼らと親しくなり「論語」や「孟子」を素読するようになりました。また、祖父が漢方医であったことから医学にも関心のあった杉は、緒方洪庵の養子の緒方摂蔵から医学書(医範提鋼:オランダ医学解剖書)を借りて読み、医師を志す気持ちと学問に対する意識を強くしました。

2 緒方洪庵・勝海舟らの一流の学者に学ぶ

杉亨二は舶来店で奉公した後、村田徹斎の塾に入りましたが、蘭方医であった村田が多忙のため、教えを乞うことが叶わず、大阪に出て旧知の緒方洪庵が主宰する「適々斉塾」(適塾)に入りました。ここで杉は、箕作秋坪、村田蔵六(大村益次郎)、佐野常民などを知りましたが、入門から3か月ほどで病気になって郷里に戻り、再び村田徹斎の書生となりました。その村田徹斎が江戸詰めになると、杉亨二も同行して江戸に出ました。そして佐倉藩堀田屋敷の手塚律蔵の塾、蘭方医の坪井信良の塾、松代藩江戸詰の村上英俊の塾に入門。その後、小浜藩医の杉田成卿の塾、勝海舟の塾に入門。杉亨二はこれらの塾で学ぶかたわら、中津奥平藩、紀州藩の藩士などに蘭学や物理の教授も行っていました。

3 改革のキーマンとなる識者たちとの出会い

手塚律蔵のもとではオランダ語を学び、西村茂樹や木村軍太郎らと出会いました。坪井信良のもとではオランダの医学書などの写本を行い、橋本佐内や原田敬策と出会いました。村田英俊のもとでは蘭仏英辞典の翻訳・編集を手伝いました。杉田成卿のもとでは、フランスとドイツの医学書を読んで学び、神田孝平や佐久間象山らを知りました。勝海舟のもとでは、塾頭として塾生たちにオランダ語を教え、塾生の伊澤謹吾を通じて、幕府大目付であり浦賀奉行としてアメリカ使節のペリーと交渉した伊澤美作守を紹介されました。

4 統計を知り、その重要性に目覚める

勝海舟が長崎の海軍伝習所に出向くことになると、杉亨二も同行を希望し、勝海舟の計らいで、長崎で世界の大勢を知る蘭学者を探していた幕府老中の阿部正弘に仕えることになりました。杉亨二は老中の顧問として阿部正弘に諸外国の状況や外国語などを講釈しました。そうして幕府から信頼を得ていた杉亨二は、33歳にして幕府から「蕃書調所」の教授手伝いを命じられました。外国書を読み、翻訳することが主な職務で、諸外国の歴史・情勢や学問・文化について、さらに知識を深めました。この中に、ドイツのバイエルンとオランダの統計書がありました。バイエルンの統計書は識字状況に関するもので、人々の状況が数量で表されていました。オランダの統計書は人口に関するもので、人間(社会)の姿を割合で示すなど数量技法を用いて明らかにしていました。杉亨二は統計によって社会の状況を客観的に理解できることを知り、その有用性と必要性を強く感じました。また、オランダ留学から帰った西周と津田真道が持ち帰った統計学書を読み、統計の理論を会得しました。この出来事は「杉亨二自叙伝」に以下のように記載されています。

<『完全復刻 杉亨二自叙伝』(日本統計協会 平成17年3月10日発行)「スタチスチックに志す」より>

開成所で翻訳して居る内に、いつで有たか覚えて居無いが、何でもセバストポール戦争後で、千八百五十五、六年の頃かと思ふが、バイエルンの教育の事を書いたものが有た、それに、百人の中で読み、書きの出来る者が何人、出来ぬ者が何人と云ふことが書いてあった、其時に斯う云ふ調は日本にも入用な者であらうと云ふことを深く感じた、是れが余のスタチスチックに考を起した種子になったのである、斯う云ふ調をすることが必要で有ると云ふことを感じは感じたが、時が時であるから行ふ訳にも行かず、それきりになって居た、一體余は愚鈍の生れ附きで、自分でも甚だ耻ぢて居るが、若年の頃より折角人間に生れた上は、人のすることは人がする、どうか人の為さぬことを仕て置きたいと云ふ一念は何処やら心に存して居た、是が余の心にスタチスチックの種を蒔いた様に覚える、此志を起したのは何の原因か自分にも分別はつかぬ、其後千八百六十年と六十一年の和蘭のスタチスチックが渡って来た、それを見ると人員のことが書いて有た、百人の中で男が何人何分何厘だの、生れ子が何分何厘などゝ云ふことがある、どう云ふ訳で人が何分何厘になるかと、算術を知らぬから分らぬのであらうが、何にしても人が何分何厘とは妙な調べだと不思議になった、尚ほ両年の出生、死亡、婚姻、離縁、来住、往住又放火、偽造等各種の犯罪人数を比例した者がある、そこで是れは先年見た百人の内で読み、書き、算術の出来る者が何人、出来ぬ者が何人と書いてあった、あの類のものだと云ふことを考へ、これは世の中のことの分かる、面白い者だと思って、自宅へ持ち帰って丁寧に読んで、益々先年のことを思ひ出した。其内に津田真道、西周の二氏が和蘭から帰って来た、色々の話を聞いた所が、スタチスチックの話があり、又スタチスチックの本を見てそれから益々深入りした。

5 日本初の人口調査「駿河国人別調」を実施

杉亨二が41歳の時、江戸幕府が崩壊し、蕃書調所(開成所)も閉鎖されました。徳川家は駿河に移封されることになり、杉亨二も徳川家に従って駿河に移住し、徳川家兵学校の教授方となりました。その当時の沼津奉行は、開成所時代に教えた阿部国之助であったため、杉亨二は阿部国之助を介して静岡奉行の中壷伸太郎に会い、領内の実情を知って政治を行うには人別調が必要であると説いて、念願の人口調査「駿河国人別調」を実施しました。(「駿河国人別調」は藩の命令で2地域を終えたところで調査中止に)。

6 太政官で総合統計書「日本政表」の編成

1870年(明治3年)になると、杉亨二は明治政府の民部省に出仕を命じられ、再び江戸に出ました。しかし、その職務が旧来の身分を調べる戸籍調査であったため、人口調査を行うには人々を平等に扱う必要があり、そのためには封建的な事柄を取り除く必要があると考えていた杉亨二は、意見が合わずにわずか3か月ほどで辞職して沼津に戻りました。翌年、今度は太政官から政表(統計)の仕事で出仕を命じられ、江戸に居を移しました。そして、太政官では、ウィーン万博を視察した旧知の赤松則良から「統計学教程」(ハウスホーヘル著)を譲り受け、これによって統計学についての専門的な知識を深めました。太政官正院政表課で杉亨二は、まず、「日本政表」の編成に当たりました。
日本政表は、我が国最初の総合統計書で、現在の「日本統計年鑑」の前身に当たり、1872年(明治5年)4月に「辛未政表」(明治4年の分)と題して刊行されました。以後、1873年(明治6年)に「壬申政表」(明治5年の分)、「明治6年政表」、「明治7年政表」として刊行され、1875年(明治8年)以降は、単に「日本政表」と題して、明治11年分まで刊行されました。また杉亨二は、このほか、「海外貿易表」の作成、「日本府県民費表」の編集なども行いました。

7 統計の専門機関である「表記学社」、「製表社」の設立

杉亨二は太政官での仕事や関連する活動を通じて、政府の要人や有力者、統計学者などと知り合い、交流を深めることでさらに統計業務に取り組み、1876年(明治9年)には統計の専門機関である表記学社(後の統計学社)、1878年(明治11年)に製表社(現在の日本統計協会)を設立しました。

8 日本初の大規模人口調査「甲斐国現在人別調」の実施

杉亨ニは『現在人別の調査は根本である。國家必要なる事である、・・・』として、全国総人員の現在調査(国勢調査)を構想しました。そして、その具体的な実施方法、調査の問題点、調査経費等の大体の目途を知るため、甲斐国(現在の山梨県)において実際に調査することにしました。この調査は、「甲斐国現在人別調」として1879年(明治12年)12月31日午後12時を期して実施されました。戸籍法に基づく戸口調査が戸籍編成のために戸籍上の人を点検調査したのと異なり、この調査は、実際に住んでいる人を調査したもので、地域こそ甲斐国に限られましたが、我が国における国勢調査実施のための大切な試験調査となりました。

9 統計専門家養成のため共立統計学校を設立

1881年(明治14年)5月30日大隈重信の建議により、太政官に統計院が設置され、杉亨二は、同院の大書記官に任ぜられました。
杉亨二は、『人命は短うして事業は永久なり、既に老い、日暮れて路遠ければ、學校を設立して數百名の學生を教養せんと欲し、此事を鳥尾院長に謀りしに、・・・』と、当時の院長であった鳥尾小弥太に相談の上、1882年(明治15年)5月政府に統計学教授所設置に関する上申書を提出しました。しかし、これが却下されたため、杉亨二をはじめ統計院の職員有志が発起人となって、翌年の1883年(明治16年)3月に九段坂下の陸軍用地を借り受け、同年9月に共立統計学校を開校し、自ら教授長となって統計専門家の養成に当たりました。
同校は、1886年(明治19年)3月に閉校されましたが、第1回目の卒業生36名と修学証明者27名を出しました。

10 第一回国勢調査の実現に尽力

杉亨二は、1885年(明治18年)12月の内閣制度発足を機に官界から引退し、その後は統計を志す後進の指導に努めるとともに、統計の普及、国勢調査実現の運動などに尽力しました。
我が国の近代化の象徴でもある初の国勢調査は、1905年(明治38年)に計画されましたが、日露戦争の影響により見送られ、第一回の国勢調査は1920年(大正9年)に実施されました。杉亨二は、国勢調査準備委員会委員となり活動しましたが、第一回国勢調査実施目前の1917年(大正6年)12月4日に89歳で死去しました。

<統計に関する主な業績>
  • 欧米統計学の導入
  • 国勢調査(人口センサス)の建議と試験実施
  • 日本政表、民費表などの作成
  • 中央統計組織の整備などの建議
  • 統計学校の設立などの人材育成
  • 統計学社の設立など統計の普及
<略歴>
1828年(文政11年)
長崎で生まれる
1837年(天保8年)
両親と死別。祖父に引き取られ、長崎の上野舶来店に奉公する
1845年(弘化2年)
大村藩医の村田徹斎の書生となる
1849年(嘉永2年)
大阪に出て、緒方洪庵の適塾に入る(3か月ほどで、病気のため村田徹斎の書生に戻る)
1850年(嘉永3年)
江戸に出て手塚律蔵の塾に入る。その後、坪井信良、杉田成卿などの塾に入る
1853年(嘉永6年)
勝海舟の塾に入り、塾頭となる
1855年(安政2年)
幕府老中の阿部正弘に仕える
1860年(安政7年)
蕃書調所の教授手伝となる
1864年(元治元年)
幕府直参に登用され、開成所の教授となる
1868年(明治元年)
徳川家に従って駿河(静岡)に移住し、徳川家兵学校の教授方となる
1869年(明治2年)
「駿河国人別調」を実施する
1870年(明治3年)
民部省に出仕。同時期に人口調査を実施するための基礎(封建的な事柄の除去)について建白する。民部省を3か月ほどで辞任し、沼津に戻る
1871年(明治4年)
太政官に出仕し、正院政表課の大主記となる
1872年(明治5年)
「辛未政表」を刊行する
辛未政表 表紙辛未政表 本文
1873年(明治6年)
人口調査の実施について建白する
1874年(明治7年)
「民費調査」を実施す
1876年(明治9年)
「表記学社」を有志と設立する(後に「スタチスチック社」、更に「統計学社」と改める)
1878年(明治11年)
東京近傍一国で人別調を実施することについて建白する。「製表社」を有志と設立する(後に「統計協会」、更に「東京統計協会」、「大日本統計協会」と改め、そして現在の「日本統計協会」に至る)
1879年(明治12年)
東京学士会院の会員に推薦される。政表局を設置し専任長官を置くことを建白する。「甲斐国現在人別調」を実施する
甲斐国現在人別調 表紙甲斐国現在人別調 本文
1881年(明治14年)
統計院の大書記官となる
1883年(明治16年)
「共立統計学校」を有志と設立する。教授長となる
1885年(明治18年)
官界を引退する(この後も、統計学社社長、講演などを続ける)
1903年(明治36年)
法学博士の学位を受ける
1910年(明治43年)
国勢調査準備委員会の委員となる。国勢調査の意見書を発表する
1917年(大正6年)
89歳で永眠

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