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日本近代統計の祖「杉 亨二」
杉 亨二(すぎ こうじ)の来歴
杉 亨二(すぎ こうじ)は、「日本近代統計の祖」と称されています。
文政11年(1828年)肥前国長崎(現在の長崎県長崎市)で生まれる。初名「純道」。
10歳にして孤児となり、上野舶来店(時計師「上野俊之丞」)に住込奉公に入る。18歳の時、大村藩の藩医村田徹斎の書生となり、その後、22歳の時に大坂へ出て蘭学者・医者として知られる緒方洪庵の適々斎塾に入ったが病のため同年帰国。翌年には江戸に出て永代橋の信州松代藩村上英俊を手伝い仏蘭西字書蘭仏対訳「ハルマ」を編集。 1852年(嘉永5年)杉田成卿(すぎた せいけい)の門に入り蘭学を学ぶ。【25歳】
1853年(嘉永6年)に勝海舟と知り合い、その私塾長となる。1855年(安政2年)には、勝海舟の推挙で老中阿部正弘の侍講(顧問)となる。翌年、阿部家側役中村勘之助の妹『きん』と結婚。【29歳】
1860年(万延元年)に江戸幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ:後の「開成所」)教授手伝となり、1864年(元治元年)には開成所教授に挙用され、蘭書翻訳に関わる中で統計書に触れ統計学を志す。
1865年(慶応元年)名を「亨二」と改める。明治維新後は静岡藩に仕え、1869年(明治2年)には「駿河国人別調(するがのくに にんべつしらべ)」を実施したが藩上層部の反対で一部地域での調査と集計を行うにとどまった。
明治4年12月24日(1872年2月2日)に太政官正院政表課大主記(現在の総務省統計局長にあたる)を命じられ、ここで近代日本初の総合統計書となる「日本政表」の編成を行う。
1873年(明治6年)には森有礼らの発議により設立された啓蒙団体明六社(明六社)の結成に参加するとともに、統計学研究のための組織である表記学社や製表社(後に変遷を経て東京統計協会)を設立して後進育成を図る一方、1883年(明治16年)9月には統計院有志とともに共立統計学校を設立し自ら教授長に就任した。 しかし、「統計学校」の「統計」という訳語が、スタチスチックの本来の意味を表現していないとしてよしとせず、自ら漢字を創作して使用した。 創作漢字は、こちら
一方、現在の国勢調査にあたる全国の総人口の現在調査(当時は「現在人別調」と称した)を志し、その調査方法や問題点を把握するために1879年(明治12年)に日本における国勢調査の先駆となる「甲斐国現在人別調(かいのくに げんざい にんべつしらべ)」を実施した。
その後は政府で統計行政に携わる一方、統計専門家や統計学者の養成にも力を注いだ。
1885年(明治18年)12月、統計院大書記官を最後に官職を辞し、以後は民間にあって統計の普及に努めた。1910年(明治43年)からほとんど視力を失ったにもかかわらず、統計事業の発展にかける情熱は消えることはなく、国勢調査準備委員会委員として統計学者の呉文聰(くれ あやとし)や衆議院議員の内藤守三らとともに長年の念願であった国勢調査の実現のため尽力したが、第1回の国勢調査が行われるのを見ずして1917年(大正6年)12月4日に病没した。享年90。1915年(大正4年)に勲二等瑞宝章を受く、没後従四位に叙される。【写真は、70歳当時の肖像です。】
杉 亨二が統計を志した動機
同人は、自叙伝に『開成所で翻譯して居る内に、・・・・・・バイエルンの教育の事を書いたものが有た。それに、百人の中で讀み、書きの出來る者が何人、出來ぬ者が何人と云うことが書いてあつた。其時に斯う云う調は日本にも入用な者であらうと云ふことを深く感じた。 是れが余のスタチスチックに考を起した種子になつたのである。 ・・・・・・若年の頃より、折角人間に生まれた上は、人のすることは人がする。 どうか人の爲ぬことを仕て置きたいと云ふ一念は何處やら心に存して居た。是れが余の心にスタチスチックの種を蒔いた様に覺える。 ・・・・・・』 と、スタチスチック(統計)を志すようになった動機を記しています。
「甲斐国現在人別調(かいのくに げんざい にんべつしらべ)」等の実施
明治維新に際し、杉 亨二は徳川家に随行して駿河(現在の静岡県)に移り、ここで沼津奉行や静岡奉行に献策して、明治2年に家別票(「世帯票」)を用いた「駿河国人別調(するがのくに にんべつしらべ)」を実施しました。 しかし、『封土人民奉還の後であるから朝廷で爲さらぬ事に當藩で斯様な調べをするのは宜しく無い』という藩重役からの妨害によって中止のやむなきに至りました。しかし、沼津と原の分に関しては、漸く表ができたので記念になったと述べています。
同人は、『現在人別の調査は根本である。國家必要なる事である、・・・・・・』 として、駿河での経験を踏まえて、全国総人員の現在調査を構想しました。 そして、その実施の前に、具体的な実施方法、調査の問題点、調査経費等の大体の目途を知るため、甲斐国(現在の山梨県)を実地に調査することとしました。
甲斐国を選んだ理由は、次のとおりです。
- 1県にして民数が少ない
- 管内の人口の移動が比較的少ない
- 東京に近く、指導、連絡等が便利である
調査は、明治12年12月31日午後12時を期して実施されました。
戸籍法に基づく戸口調査が戸籍編成のために戸籍上の人を実地に点検調査したのと異なり、この調査は、実際に住んでいる人を調査したもので、地域こそ甲斐国に限られましたが、我が国の国勢調査の先駆をなすものでした。
「日本政表」等の刊行
太政官正院の大主記となった杉 亨二は、日本政表の編成に当たりました。
日本政表は、我が国最初の総合統計書で、現在の「日本統計年鑑」の前身に当たり、明治5年4月に「辛未政表」と題して明治4年の分が、明治7年9月に「壬申政表」と題して明治5年の分が刊行されました。以後、「明治6年政表」、「明治7年政表」として刊行され、明治8年以降は、単に「日本政表」と題して、明治11年分まで刊行されました
同人は、そのほか、「海外貿易表」の作成、「日本府縣民費表」の編集なども行いました。
表記学社、共立統計学校の設立
杉 亨二は、明治9年2月に政表課員をはじめとする有志10余名を集めて統計学研究のため、「表記学社」(同社は、その後、明治11年に「スタチスチツク社」、同25年に「統計学社」と社名を改称)を設立しました。また、明治11年12月には、小幡篤次郎、阿部泰蔵らと「製表社」(同社は、翌年に「統計協会」、同14年に「東京統計協会」と社名を改称)を設立し、統計学術の普及発達に寄与しました。
明治14年5月30日太政官に統計院が設置され、同院の大書記官に任ぜられた同人は、『人命は短うして事業は永久なり、既に老い、日暮れて路遠ければ、學校を設立して數百名の學生を教養せんと欲し、此事を鳥尾院長に謀りしに、・・・・・・』と、当時の院長であった鳥尾小弥太に相談の上、明治15年5月政府に統計学教授所設置に関する上申書を提出しました。しかし、これが却下されたため、杉 亨二をはじめ統計院の職員有志が発起人となって、翌、明治16年3月に九段坂下陸軍の用地を借り受け、同年9月に共立統計学校を開校し、自ら教授長となって統計専門家の養成に当たりました。
同校は、明治19年3月に閉校されましたが、第1回目の卒業生36名と修学証明者27名を出しました。
杉 亨二の墓所等
杉 亨二は、明治18年12月の内閣制度発足を機に官界から引退し、その後は後進の指導に努めるとともに、統計の普及、第一回国勢調査実現の運動などに尽力しましたが、第一回国勢調査実施目前の1917年(大正6年)12月4日に90歳で死去しました。
同人の墓所は、東京都豊島区の染井霊園内にあります。
墓は三基あり、中央が杉 亨二の墓で、自然石の墓の表に辞世の句
『枯れたれば また 植置けよ 我が庵』
が刻まれ、裏には「法学博士 杉 亨二之墓 大正6年12月4日卒行年90歳」と刻まれています。
なお、杉 亨二の出身地である長崎県長崎市内の長崎公園(県立長崎図書館近辺)には同人の胸像が設置されています。毎年12月4日(同人の命日)には、長崎市が同所で献花式を行っています。