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統計Today No.153
大隈重信が愛した統計
総務省国際統計交渉官 千野 雅人
明治150年を機に、総務省統計局のホームページに、面白いコーナーが新設されました。それは、「統計の黎明とその歴史」と称するコーナーです。
そこでは、太政官正院に「政表課」(総務省統計局の前身)が創設された1871年(明治4年)から、「第1回国勢調査」が実施された1920年(大正9年)までの時期を中心に、近代統計の礎を築いた先人の偉業や政府統計の歩みについて、わかりやすく解説しています。また、それらの内容は、総務省統計局の「統計資料館」に記念展示されています。
明治期の「統計の偉人」として取り上げているのは、大隈重信、杉亨二、福澤諭吉、森鴎外、原敬の5人です。この偉人たちの中で、大隈重信は、明治期の統計の組織変遷や機能強化に深くかかわっています。ここでは、そのような同氏と統計の関係について、紹介します。
明治政府に登用され「戸口調査」を実施
大隈重信は、1838年(天保9年)に、肥前国で佐賀藩士の長男として生まれました。父親は、長崎港警備の砲台指揮官で、大砲に関わる数学知識、火薬に関わる化学知識に通じ、外国事情にも通じていました。そんな父親に随行して様々な物ごとを見聞きした大隈は、幼少時代から、数理、自然科学、外国への関心を強め、佐賀藩の「蘭学寮」でオランダ語と蘭学を学び、アメリカ人宣教師から英語を学びました。
1868年(明治元年)に明治維新が起こると、大隈は明治政府に登用され、「外国事務局」判事として長崎の裁判所と運上所(税関)に着任します。ここで、キリスト教徒への迫害問題に関する外国公使団との交渉に実務担当として参画し、日本側の主張を認めさせます。
その功績も評価され、翌年の1869年(明治2年)には中央政府に仕えることとなり、外国官副知事・会計官副知事に、次いで民部大輔・大蔵大輔に就任しました。国の財政に携わるようになると、大隈は、税収の安定を図るための根拠となる資料がないことを知り、各藩に対して、戸口数や田畑の面積などを調べる「戸口調査」の実施を指示しました。ここで、「統計」との関わりを持つようになったのです。
「大蔵省統計寮」と「太政官正院政表課」を監督
1871年(明治4年)には、アメリカでの財政制度の調査から帰国した伊藤博文の建議に沿って、国の組織や制度の改革が進められました。その中で、日本で初めて統計事務を担う政府組織として「大蔵省統計司」(後の「大蔵省統計寮」)が創設されました。アメリカでは、大蔵省の中に統計を担当する大きな組織があることがわかり、大隈は、統計の重要性の認識を深めるのです。
また、同年には、外務卿岩倉具視を正使とする「岩倉使節団」が欧米に派遣されましたが、その際、使節団は、日本を紹介する資料集として太政官記録編集局が編纂した「日本国勢要覧」を携行しました。これを通じて、総合統計書の重要性が認識され、同年に「太政官正院政表課」(総務省統計局の前身)が創設されました。
そのような中で、大隈は、1873年(明治6年)に参議兼大蔵卿に任ぜられ、「大蔵省統計寮」を監督することとなりました。しかし、伊藤博文が提案した「官省分離」により、1880年(明治13年)2月に大蔵卿を辞任すると、参議専任となった大隈は、太政官会計部の担当となりました。当時、「太政官正院政表課」は「太政官会計部統計課」(統計課長:杉亨二)となっていたため、ここでも統計を監督することになったのです。
「太政官統計院」を創設し、初代「統計院長」に
1881年(明治14年)4月には、大隈は、杉亨二らが明治政府に要望していた統計機構の拡大強化の建議を基に、「太政官統計院」の創設について建議しました。建議の冒頭には、次のように謳(うた)われています。
「現在の国勢を詳明せざれば、政府すなわち施政の便を失う。過去施政の結果を鑑照せざれば、政府その政策の利弊を知るに由なし。」
これは、「現在の国の情勢を詳細に明らかにしなければ、政府は即座に政策を行う拠り所を失う。過去の政策の結果を鏡に映すように明らかにしなければ、政府はその政策の良し悪しを知ることができない。」ということです。そして、それを可能にするのは、唯一、「統計」であると述べています。証拠に基づく政策立案(EBPM)や政策評価に通じる考え方が、簡明に表現されているのです。
この建議に沿って、同年5月に、統計課の組織を拡充して「太政官統計院」が創設されると、大隈は、自ら初代の「統計院長」に就任しました。「太政官統計院長」は、現在風に言うと、「国務大臣・内閣統計長官」のようなイメージではないでしょうか。
しかし、まもなく「明治14年の政変」が起こると、大隈は政府から追放されることとなり、同年10月には、統計院長も参議もすべて辞職しました。 統計院の建議から統計院長の辞職まで、すべて1年間に起こった出来事であり、激動の明治14年でした。
「内閣統計局」を復活させる
「太政官統計院」は、内閣制度の発足とともに「内閣統計局」となりましたが、大隈が政府から追放されている間に、「内閣統計課」に縮小されてしまいました。この間に、大隈は、「早稲田大学」の前身である「東京専門学校」を開設しています。また、「東京統計協会」の名誉会員となり、政官界だけではなく、多くの学識者・統計学者とも交流を持つようになりました。
その後、大隈は、政府に復帰しましたが、外務大臣時代に暴漢に襲われ、右脚を切断する重症を負って政界を引退しました。しかし、その7年後に再び政府に復帰し、1898年(明治31年)には、憲政党を結成して60歳で総理大臣になりました(第1次大隈内閣)。すると、大隈は、同年に「内閣統計課」の組織を再び拡充し、「内閣統計局」を復活させるのです。
「統計」への変わらぬ情熱
大隈は、同年の「統計懇話会」での講演で、政治・行政を行うに当たってはその拠り所がなければならず、それが統計である、と述べています。また、地租改正の問題についても、欧米には課税の議論の根拠として統計というものがあることを紹介し、統計の重要性を訴えました。このような統計を重んずる姿勢は、その後の内閣解散、政界引退を経ても、変わることはありませんでした。
1914年(大正3年)に政府へ三度目の復帰をし、再び総理大臣となると(第2次大隈内閣)、大隈は、国際的な視点も含めて統計の発展を求める、次のような内閣訓令を発しました。
「・・・局に当る者、益々力を統計の事に致し、堪能の吏員をして之を掌(つかさど)らしめ、・・・務めて統計の進歩改善を図り、もって国務の実用に資せむことを望む。」
これは、「府省で職務を遂行する者は、益々力を統計の方に向け、有能な職員に統計を担当させ、・・・統計の進歩改善に向けて努力し、国の実際の仕事に役立つようにすることを望む。」ということです。「統計」に対する変わらぬ情熱を感じさせる訓令ではないでしょうか。
1916年(大正5年)の内閣総辞職を機に政界から完全に引退した大隈は、晩年、「文明の調和」という理念の下に、精力的な啓蒙活動を続けました。そして、統計を始めとする欧米の先進的な学術と文化を積極的に取り込もうとした大隈は、早稲田大学の発展に貢献しつつ、1922年(大正11年)に東京の早稲田でその人生の幕を下ろしました。
大隈重信を始めとする「統計の偉人」たちの統計にかける熱い思いを胸に刻み、これからの統計の進歩・改善に、少しでも貢献していきたいと思います。
(令和2年1月16日)