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統計Today No.151
原敬と国勢調査100周年
総務省国際統計交渉官 千野 雅人

来年2020年の国勢調査は、1920年(大正9年)の調査開始から100年を迎える節目の調査となります。
第1回国勢調査は、我が国の近代的統計調査の幕開けといえるものでした。しかし、それは、国勢調査の試験調査ともいえる「甲斐国現在人別調」の実施から40年後、万国統計協会からの「1900年世界国勢調査」への参加勧誘から25年後、「国勢調査ニ関スル法律」の成立・公布から18年後のことであり、実施までの道のりは、決して平坦ではありませんでした。
統計先駆者たちの苦労の末に、ようやく実施にこぎつけた第1回国勢調査ですが、このときの内閣総理大臣が、平民宰相と呼ばれて国民から人気の高かった「原敬」です。原敬は、第1回国勢調査の時期にたまたま内閣総理大臣だった、というわけではなく、国勢調査や統計が国家の存立に不可欠であることを知悉(ちしつ)して国勢調査を実施した内閣総理大臣でした。その意味で、原敬は、明治期の「大隈重信」に続く、大正期の「統計の偉人」といえます。
ここでは、国勢調査100周年を迎えるに際して、このような原敬と国勢調査とのかかわりについて、紹介します。
「東京統計協会」の会員に
原敬は、1856年(安政3年)に南部藩士の次男として誕生しました。祖父が家老職を務めるほどの立派な「士族」の家柄でしたが、19歳のときに分家して、戸籍では「平民」の戸主となりました。
原は、5歳のころから、書や漢学、算術などを学び、南部藩の藩校「作人館」では、藩が学費を支弁する藩費生となるほど成績優秀でした。その後、15歳で上京すると、東京のカトリック神学校などでフランス語や漢籍を学びました。23歳のときに、当時有力な新聞社であった「郵便報知新聞社」に入社し、フランス語新聞の翻訳を担当しました。そして、新聞記者としての取材活動を通じて、渡辺洪基と知り合います。
渡辺洪基は、福澤諭吉の塾(後の慶応義塾)で洋学を学び、外交官として岩倉遺外使節団に随行して西洋の文明や学問を体験した人物で、後に、東京府知事や帝国大学初代総長を歴任します。洋学を通じて早くから「統計」の重要性を認識していた渡辺は、当時、統計に関する学会の設立を計画していました。この考えは、杉亨二を中心に設立したばかりの「製表社」と同様のものであったため、これに合流して組織の名称を「東京統計協会」と改め、渡辺が自ら初代会長となりました。
なお、この「東京統計協会」は、後に、統計の発展という志を同じくする「統計学社」と合併し、現在では、「日本統計協会」となっています。
原敬は、このような渡辺の話を聞くうちに意気投合し、自らも東京統計協会の会員となりました。明治期の統計先駆者たちと交流を持つ中で、統計に対する認識を深めていったものと思われます。東京統計協会では、日本各地の実情調査を行うために渡辺とともに北海道・東北を周遊しており、地方の実情を解説する記事を郵便報知新聞に投稿しています。
パリで体験した「フランス国勢調査」
その後、原敬は、外務省に入省し、1885年(明治18年)12月、29歳で書記官としてパリの公使館に赴任しました。当時、フランスは、5年に一度の「1886年国勢調査」の実施準備のさなかであり、先進的な統計調査の実情を知ることができる貴重な時期でした。このため、東京統計協会の渡辺洪基から、フランス国勢調査の実施状況を調査・研究して報告するよう、依頼されます。
フランスの国勢調査は、1886年5月30日に実施されました。原は、調査の実施後の1886年6月18日と、調査結果の公表後の1887年1月14日の2回にわたり、東京統計協会に報告を送っています。
第1回では、いまだに調査票の回収が終了しておらず、調査終了までには随分な日数を要すると考えられること、毎年調査する方が良いのだろうが、多額の費用を要することに十分な注意が必要であること、などを報告しています。第2回では、調査報告書は官報で公布されたが、詳細で膨大なものであること、人口は租税や種々の行政の基礎であるため、5年ごとの調査は直接法律に基づいて実施していること、などを報告しています。
パリでめぐり合ったこのような貴重な経験によって、原は、国勢調査による正確な人口統計が近代国家の運営に不可欠である、という認識を強くしたものと思われます。パリには、1889年までの3年余り、勤務しました。
「国勢院」の設置と「第1回国勢調査」
帰国後の原は、農商務省や外務省に勤務し、39歳で外務次官となりました。その後、「大阪毎日新聞社」に入社して社長となり、政界を始め各界各層の人物と交流しました。44歳のときには、伊藤博文が結成した政党「政友会」に参画し、初代の幹事長となりました。この後は、政党政治家として、逓信大臣や内務大臣、政友会総裁などを経て、1918年、62歳で内閣総理大臣となりました。日本で初めての平民籍出身の総理大臣であり、「平民宰相」と呼ばれて国民から歓迎されました。
当時は、各国の総力戦となった第1次世界大戦の時代で、国の総力を挙げて戦時に対応する方策が研究されていました。このような中で、1920年(大正9年)5月、原内閣は、新たに「国勢院」を設置しました。国勢院は二つの部から構成され、内閣統計局を第一部、軍需局を第二部に充てました。そして、同年10月、原総理の下、この国勢院によって、記念すべき「第1回国勢調査」が実施されたのです。なお、国勢院は、国勢調査実施後の1922年に廃止され、その第一部は、再び内閣統計局となりました。
第1回国勢調査は、「文明国の仲間入り」を合言葉に、大変な意気込みで実施されました。名士による講演会、旗行列、花電車、果てはチンドン屋までが広報に活躍し、新聞はそれらを華々しく報道しました。そして、10月1日午前零時の前後には、各地でサイレンや大砲を鳴らし、お寺やお宮では鐘や太鼓を鳴らすなど、文字どおり鳴り物入りのお祭り騒ぎ、国を挙げての一大行事となりました。
「原敬日記」にみる第1回国勢調査
原敬は、青年期から生涯にわたり、膨大な日記を残しています。この「原敬日記」は、明治・大正期の政界の裏表を伝える貴重な史料と言われています。この日記の中にも、国勢院や国勢調査の記述があるので、ここに紹介します。日記によれば、第1回国勢調査の当日は、雨だったようです。
「西園寺 昨日上京に付 往訪・・・国勢院には 小川平吉を登用することを内談したり、・・・。」
「標語」にみる日本の100年
国勢調査では、毎回、広く一般の方々から「標語」を募集していますが、これも100年続くと、各時代の雰囲気を醸し出して、とても興味深いものになります。
先進的な欧米諸国に追いつけ追いこせと、大変な意気込みで実施された第1回国勢調査の標語は、「国勢調査は 文明国の鏡」でした。
この後、5年ごとに実施されてきた国勢調査は、第2次世界大戦の終戦の年である1945年には、実施されませんでした。しかし、まだ戦後の混乱期が続く中、早くも1947年には、臨時国勢調査が実施されます。このときの標語は、「再建へ 漏れなく正しく ありのまま」でした。
日本は、戦後復興から高度経済成長へと発展していきますが、標語にも、豊かな社会に向かって急速に成長する勢いが感じられるようになります。1960年の標語は、「国伸ばす 基礎だ 力だ 国勢調査」でした。
豊かな生活が実現する中で、友達どうしのような家庭のことをニューファミリーと呼ぶ時代になると、標語にも変化が現れます。1970年の標語は、「国勢調査 パパ ママ ボクの名がならぶ」でした。
そして、日本経済は絶頂期となり、夢のような豊かな時代を迎えます。大きく発展する未来を誰もが信じていたバブル経済真っ只中の1990年の標語は、「数字から 描く日本の ゆめ・みらい」でした。
国勢調査の本質的役割
世界で初めて、法令に基づく近代的国勢調査を実施した国は米国であり、それは、日本よりも130年も前の1790年のことでした。米国では、1787年制定の「合衆国憲法」で、国勢調査の実施が義務付けられています。
「下院議員及び直接税は、合衆国に加入する各州の人口に応じて、これを各州に配分する。人口の実地調査は、第1回合衆国議会の開会から3年以内に、以後は10年ごとに、法律の定める方法により行う。」(合衆国憲法 第1章第2条第3項、筆者訳)
このように、国勢調査の根源的な目的は、国家を形成する地方統治機構への国会議席と税金の配分基準です。この意味で、国勢調査は、民主主義の基盤であり、国家統治の基盤なのです。
このことは、世界のどの国でも同様です。日本でも、「統計法」で国勢調査の実施が義務付けられ、「衆議院議員選挙区画定審議会設置法」で国勢調査人口により選挙区の改定が行われ、「地方交付税法」で国勢調査人口などにより地方への交付税額が決定されることとされています。
国勢調査の結果は、身近な暮らしの対策から各種の行政施策・研究まで、幅広い分野で活用されるものですが、その根源的な役割は、国会議席と税の配分です。近代的民主国家において、国勢調査は、国家存立の基盤なのです。
国勢調査にかけた統計先駆者たちの熱い思いと、原敬に始まる100年の歴史を胸に刻み、2020年国勢調査に期待したいと思います。
(筆者注)本稿は、統計専門月刊誌「統計」(一般財団法人 日本統計協会)の2019年10月号に掲載した内容に、一部修正を加えたものです。
(令和元年10月16日)