統計の歴史を振り返る
統計の3つの源流

我々が今日「統計」と呼んでいるものの歴史を振り返ると、その源流は以下のように大きく3つに分けることができます。

  1. 国の実態をとらえるための「統計」
  2. 大量の事象をとらえるための「統計」
  3. 確率的事象をとらえるための「統計」

これらは別々のルートをたどって、19世紀半ば、ケトレー(Adolphe Quetelet 1796年-1874年)が社会統計を科学的に作成・分析するために確率論を導入したことで、社会現象・自然現象いずれも数量的にとらえる「統計」として形を整えました。ケトレーは、母国ベルギーの統計制度の整備や公的統計の改善に努めただけでなく、国際的な統計の比較可能性を高めるべく国際統計会議の設立にも力を尽くし、その功績から「近代統計学の祖」とされています。

以下では、ケトレーによって統合される3つの源流について振り返ります。

ケトレーの人物画
Adolphe Quetelet
  1. 国の実態をとらえるための「統計」

    アウグストゥスの肖像彫刻
    Augustus

    1の「統計」は、もっとも古くまで歴史を遡ります。

    古来、為政者は、徴税、兵役などのために、その支配する領域内の実情をできるだけ正確に把握する必要がありました。明治初期に「統計」と訳されたstatistics(英)やその基になったstatistik(独)はラテン語の「status」(国家・状態)に由来していますし、19世紀のフランスの統計学者モーリス・ブロックは「国家の存するところ統計あり」という言葉を残しています。こうしたことからも、統計が国家経営に欠かせないものとして発展してきたことは容易に理解できます。

    古代エジプトでは紀元前三千年にピラミッドを建設するための調査が行われたことが知られていますし、ローマ帝国では初代皇帝アウグストゥスの治世の頃に、人口や土地を調べる調査(Census)が行われました。今日、国勢調査のことを「人口センサス」と呼ぶのはその名残です。

    16世紀以降、ヨーロッパでは各国が互いの勢力拡大を目指してしのぎを削るようになり、国家の繁栄は人口や貿易に反映されるという考え方から、17世紀になると産業や人口に関して数量的なデータを把握するための調査・研究が盛んに行われました。ドイツを中心に発展した「国勢学」がその代表です。この学派は、人口や土地面積、歳入歳出といった国家の基礎をなす事項(国家顕著事実)を記録し、比較を容易にするために表式で表すことを試みました。

    イギリスでは、ウィリアム・ペティ(William Petty 1632年-1687年)がその著書「政治算術」の中で、度重なる戦争で苦しい状況に追い込まれていた当時のイギリスの人口や経済の実態をオランダ、フランスと定量的に比較し、国政に役立てるよう国王に献上しました。その手法はドイツの「国勢学」とは異なるもので、後述するAの流れに属しますが、国家の実情を把握し、国家運営の指標として用いようという意図において、互いに通じるものがあります。

    このように、18世紀から19世紀にかけて、各国で国家運営の基礎として統計を用いることの重要性が強く認識されるようになり、そのための体制整備や統計調査が積極的に行われるようになりました。フランスでは、統計の重要性に着目したナポレオン(1769年-1821年)によって1801年に統計局が設置され、政府によって統計が整備されるようになりました。各国で最初の近代的なセンサス(人口調査)が行われたのも、この時期です(デンマーク1769年、アメリカ1790年、オランダ1795年、イギリス1801年など)。

    ウィリアム・ペティの肖像画
    William Petty
  2. 大量の事象をとらえるための「統計」

    2の統計は、イギリスのジョン・グラント(1620年-1674年)によってその道が切り開かれました。

    グラントは、当時たびたびペスト禍に見舞われていたロンドンで、教会の資料を基にした死亡統計表を分析し、一見偶然とみえる人口現象に規律性のあることを明らかにしました。彼はまた、当時200万人と考えられていたロンドンの人口について、様々なデータや観察を通じて38万4千人と見積もり、限られた量のサンプルデータを注意深く観察することで全体の人口に関する推測が可能になることを示したのです。

    グラントのこうした手法は、研究の基礎を数字に置きながら、単に物事の状況を描写することにとどまらず、一見不秩序に見える複雑な物事の間に横たわる規律の発見に努めた点で、前述した「国勢学」(国家の基礎を成す重要事実を対象としてそれをありのままに描写・記述することに終始し、因果関係を探求することはなかった)とは明らかに一線を画していました。前述のペティはグラントの友人でした。彼が著した「政治算術」は国の実態を明らかにするものでしたが、社会的な事象を数量的に観察し、その背後にある規則性を指摘しており、統計学上の位置づけとしてはグラントと同じ流れに属します。

    グラントやペティに続いて、その手法を科学的に一層発展させたのが、ハレー彗星を発見したことで知られるエドモンド・ハレー(Edmond Halley 1656年-1742年)です。ハレーは、それまで偶然が支配するところと考えられていた人間の死亡に一定の規律性があること、すなわち集団的な人口に現れる死亡には、これを予測し得る一定の秩序があることを明らかにしました。当時のイギリスには、いくつかの生命保険会社がありましたが、合理的な保険料を計算する基礎を持たず、その経営はいわばギャンブルの一種であるかのように考えられていました。ハレーはグラントが手がけた生命表を更に発展させ、これによって初めて、生命保険会社が合理的な保険料金を算出できるようになったのです。その意味で、ハレーは今日の生命保険事業の基礎を築いたと言えます。

    エドモンド・ハレーの肖像画
    Edmond Halley
  3. 確率的事象をとらえるための「統計」

    パスカルの肖像画
    Blaise Pascal

    1と2の統計の流れとは別に、確率的な事象をとらえる必要から、統計に関する重要な概念や手法が発展してきました。3の統計は、サイコロ賭博のように偶然に左右されるギャンブルとの関わりの中から産み出されました。

    今日、統計には欠かせない「標本空間」の基本的な考え方は、16世紀にサイコロ賭博やトランプゲームにおける偶然の仕組みを数学的に研究したイタリア人カルダーノ(Geloramo Cardano 1501年-1576年)によっていますし、地動説を唱えたことで有名なガリレオ(Galileo Galilei 1564年-1642年)はトスカーナ大公から命じられて「サイコロゲームについての考察」という小論を書いています。

    数学者パスカル(Blaise Pascal 1623年-1662年)とフェルマー(Pierre de Fermat 1600年代初頭-1665年)はサイコロ賭博の問題をテーマに書簡をやりとりし、その中から確率論の基礎が芽生えました。期待値、推定、検定、標本理論などは、そこから発展していったものです。

    パスカル、フェルマーが基礎を作った確率論は、その後、数学における大きなジャンルとなり、18世紀に入り、ベイズ(Thomas Bayes 1702年-1761年)、ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange 1736年-1813年)、ラプラス(Pierre-Simon Laplace 1749年-1827年)といった一流の数学者たちの研究を経て大成します。確率論の統計への応用としては、ドゥ・モアブル(Abraham de Moivre 1667年-1754年)の年金論、D.ベルヌーイ(Daniel Bernoulli 1700年-1782年)による天然痘の罹病率、死亡率の計算などがあります。オイラー(Leonhard Euler 1707年-1783年)とラプラスは抽出調査を基にした全体の推計方法を考案し、それはフランスの人口の推計に応用されました。

    フェルマーの肖像画
    Pierre de Fermat
    ラプラスの肖像画
    Pierre-Simon Laplace
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