ナイチンゲールと統計

 「近代看護教育の生みの親」とも呼ばれるイギリスの看護師フロレンス=ナイチンゲール(1820年-1910年)ですが、統計とも深い関わりがあることは日本ではあまり知られていません。

 彼女は、上流階級の家庭に生まれ、歴史・語学・音楽など高いレベルの教育を受けました。また、若い頃から「近代統計学の父」ベルギー人アドルフ=ケトレー(1796年-1874年)を信奉し、数学や統計に強い興味を持ち、優秀な家庭教師について勉強したと言われています。

 ナイチンゲールは、イギリス政府によって看護師団のリーダーとしてクリミア戦争(ロシアとトルコの間の戦争で、イギリスはフランスとともにトルコに味方してロシアと戦った)に派遣されると野戦病院で骨身を削って看護活動に励み、病院内の衛生状況を改善することで傷病兵の死亡率を劇的に引き下げました。

 彼女は統計に関する知識を存分に使ってイギリス軍の戦死者・傷病者に関する膨大なデータを分析し、彼らの多くが戦闘で受けた傷そのものではなく、傷を負った後の治療や病院の衛生状態が十分でないことが原因で死亡したことを明らかにしたのです。

Florence Nightingale

 

クリミア戦争における死因分析を表したグラフ

 

 彼女が取りまとめた報告は、統計になじみのうすい国会議員や役人にも分かりやすいように、当時としては珍しかったグラフを用いて、視覚に訴えるプレゼンテーションを工夫しました。今も「鶏のとさか」と呼ばれる円グラフの一種はこの過程で彼女によって考え出されたものです。

 1860年には、ケトレーが立ち上げた国際統計会議のロンドン大会に出席し、統一的な病院統計のためのモデル形式を提案しました。統計のとり方がバラバラであっては、有効な比較分析に支障を来し、医療技術の向上にもつながらないと考えたのです。提案は会議の分科会で討議され、各国政府に送付する決議が採択されました。

 国をまたいで統計調査の形式や集計方法を標準化することは、今日でも簡単なことではありません。ナイチンゲールには現場の経験と統計の知識に裏付けられた揺るぎない信念があったのでしょう。

 このような活躍が認められ、ナイチンゲールは1859年に女性として初めて王立統計協会(the Royal Statistical Society)の女性会員に選ばれ、その16年後には米国統計学会の名誉会員にもなっています。

 「白衣の天使」ナイチンゲール-祖国イギリスでは統計学の先駆者として今も人々の記憶に刻まれています。