近代日本を築いた統計
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呉文聰の著書第1回国勢調査を周知するハガキ 1880(明治13)年、呉は内務省に移り、衛生局で衛生統計に携わります。その後、政治活動に移ったり、官界に戻ったりしながら、統計学についての大学での講義、著書の執筆などもしています。 1895(明治28)年、農商務省にいた呉は、同志と共に日本での国勢調査実施を衆議院に働きかける運動をしました。この結果、「国勢調査執行建議」が衆議院を通過しました(→p38)。 その功績は杉亨二にまさるとも言われています。 1895(明治28)年、国際統計会議で1900(明治33)年の世界人口センサスが決議されると、日本政府は、アメリカでの国勢調査視察のために呉を派遣しました。呉は半年余りアメリカとヨーロッパを視察し、帰国後に、国勢調査実施を政党や新聞社などに働きかけました。 1902(明治35)年に制定された「国勢調査ニ関スル法律」は、呉が原案作成に関係しています。 日本での国勢調査実施を夢見た呉でしたが、その実施を目の当たりにすることはかなわず、1918(大正7)年に66歳で亡くなりました。 なお、「センサス」を「国勢調査」と訳したのは、呉のようです。統計学の普及に努める国勢調査実施を夢見て

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